【米ドラマ】House of Cards
House of Cardsというドラマをご存知だろうか。
https://www.netflix.com/jp/title/70178217
最近観ているNETFLIX配信のドラマなんだけど、これがとても面白い。下院議員であるフランシス・アンダーウッドが権謀術数を尽くして権力の座に登っていく話なんだけど、こいつがとにかく悪い。流れるように嘘をつくし、言葉巧みに相手を騙してしまう。サクッと人を殺したりもする。
周囲の人間もヤバくて、アンダーウッド議員と独特の距離感を保ちながら強いキャリア志向がある妻、議員の為に何でもする腹心など、それぞれが従来の米ドラマでは登場しなかったようなクセの強い人物像になっていて、毎回こちらの予想を上回る行動を取るのがとても楽しい。
彼らはえらく強いんだけど、常に逆境の渦中にあって次々訪れるピンチに立ち向かい続ける。時には追い詰められて弱い一面が出てきたりする。シーズン3では縮こまって泣いてるアンダーウッドが出てきたりして、振れ幅に心惹かれる。
この上なく悪どいアンダーウッド。彼は権力の座に上り詰める為にどんな悪いことでもやる。停滞した議会を(色んな人を騙して)掌握し、国民の支持を得られる政策を(誰かを脅して)実現する。彼は完全に自分の私欲の為にそれをやっているんだけど、もし彼がその豪腕を振るわなかったら、福祉政策も雇用対策もされずに弱者は放置されていた。
ゲーテは善意から為された善行でなければ、善行ではないとした。私欲で悪どい手段で、結果大勢の人が救われたとしてもゲーテ的には完全に悪だ。でもそうしなければ大勢が失業したままだったなら?
悪ってなんだろうか。
座面の平らな椅子が好き
僕は両足を地面に踏ん張って座るのが好きだ。
平らな座面に骨盤を立てて座ると背筋が伸びるし体勢も安定して作業がやりやすくなる。猫背になってると背中が広がってしまって年寄りくさい体型になるという話もあるし、背筋が伸びていると気持ちも前向きになると思う。
ところがセミナーに行くと座面が後ろに傾いた椅子が多い。そうするとかなり無理をしないと背筋が伸ばせない。仕方ないので椅子の後ろの端にお尻を押し込んで背筋を伸ばしてみると、座面の前側がお尻よりかなり高い位置になるので太ももが圧迫されてしびれてくる。逆に椅子の前の端に座ってみると椅子だけならいい感じなんだけど、座る位置が高くなっちゃうので今度は椅子と机に太ももが挟まれてしまう。
どうして世の中には後ろ向き座面の椅子が多いのだろうと思ったんだけど、電車の中やオフィスを見回していて納得した。どうやら世の多くの人は踏ん張って椅子に座ったりしないのだ。
じゃあどうしているかというと、背もたれに体重をかけて後傾して座っている。脚を組んでることもあるけど、後傾しているのは変わらない。後傾すると踏ん張りが利かないのに殆どの人がそうしてる。人によっては背中が不自然なぐらい丸まってたりする。
背骨というのは立っているときが一番良い状態で自然なS字になっている。それに近い状態で座ろうとすると平らな座面に骨盤を起こして座るのが良いんだそうだ。ところが多くの人が、背中が丸まった状態で座って腰に無理をかけてしまい腰痛を引き起こす。だから骨盤を起こして座るべきなのだ。
なのに世の椅子の多くが後傾して座るように設計されているのは何故なのか。
逆側のホーム
僕はJRをよく利用する。最寄り駅はよくある構造で、上り電車の着くホームと下り電車のホームが階段で繋がるようになっている。
東京に行くときは上り電車のホームに行くのだけど、たまーに上り電車が逆側のホームに着くことがあって困っている。自分が乗るはずの電車が逆側のホームに着くのを見て慌てて走った結果、無情に閉まる扉を呆然と眺めたりしている。
もちろん駅の電光掲示があるのでそれをちゃんと確認すれば良いんだけど、ほとんどすべての電車が上りホームに着くのでついつい確認せずに行ってしまう。
どうにかなりませんかJRさん
ごまかし、あいまい、なんとなく
ここで言う三悪とは
・怒る
・妬む
・愚痴る
という事で、仏教から来た考え方なんだそうだ。
確かに怒ったり妬んだり愚痴ったりしていると、何もかもうまくいかなくなるだろう。僕はよく怒っているし、妬んだり愚痴ったりしているから耳に痛い話である。勝間さんは単にこの3つをやめるよう書いているけど、僕はこの3つから自由になるのが結構難しいように感じている。
仏教には昇華という考え方があって、同じ怒るのでも「悪への怒り」に昇華させれば善を成せると説いているそうだ。妬みを自分が努力する原動力にしたり、見つけた難点を愚痴るんじゃなく問題解決の対象としたりすればいい方向に持っていけるんじゃないか。僕には三悪を消すのが難しそうなのでそういうやり方をやっていきたい。
ところで僕も組織を機能不全にする三悪というのを考えた。
・ごまかし
・あいまい
・なんとなく
の3つだ。
ちゃんと仕事をしない人は必ずこの3つのどれかをやる。成果や意思決定プロセスに問題がある人は、うまく行かなかったことを隠す為に「ごまかし」たり「あいまい」にしたりする。そしてそうなってしまう人は大抵「なんとなく」仕事をしている。
最悪な場合は
1. なんとなく意思決定して
2. 成果をあいまいにしたり、ごまかしたりして
3. 意思決定プロセスもあいまいにしたり、ごまかしたりする
これらをやる人は「なんとなく」ではない仕事のやり方を知らないか、やろうとしても出来ない人だと思う。僕も数年前までやり方を知らなかったんだけど、たまたますごく仕事ができる人の下についた事をきっかけに勉強しはじめた結果、なんとなく仕事してきた過去の自分の愚かさを学んだ。
あなたも職場でこの3つを探してみたほしい。
日本語ネイティブの役者に英語しゃべらせるのはやめた方が良いと思う
その英語台詞は本当に必要なのだろうか?
「シン・ゴジラ」という映画が昨年ヒットした。僕も仕事で外出した帰りに遅い時間の上映で観てきた。ゴジラが現代社会に突然現れる衝撃や、異様な生物としてのゴジラ表現、それに対処する対策本部の人々のドラマなど、これまでにない映画で最高に楽しかった。
ところで1点不満があった。それは英語だ。
最近なんだか日本人の役者に英語の台詞を言わせる映像作品が増えた。恐らくリアリティを出そうとしているのだろう。「この台詞は米国人が話しているシーンだから英語を話しているはずだ、であれば会話してる日本人も英語だ」というわけだ。
それがちょっとマズイ事になっている。大抵の日本人は英語での会話に慣れてないので、英語が堪能な役者もすごく少ないようだ。「英語が堪能な日本人」役なのに発音が超カタコト英語、というシーンが頻繁に出て来てしまう。しかも下手なのに早口で話すので、台詞に聞こえない。そういう呪文を唱えてるように聞こえてしまう。明らかに演技ではない。
昔は英語で話しているだろうシーンも日本語で話すことが多かった。アニメなんかは特にそうで、相手がどこの国の人でも台詞は日本語で話してしまったんだけど、それで良かったんだと思う。だって日本人の役者は日本語での演技が上手いんだから。
これは役者が悪いわけではない。監督や演出が悪いのだ。台詞の95%を日本で話すので「日本語の演技が巧みである」部分は外せない。そこに「英語まで堪能」というのを足すのが良いのか、演技の巧みさを優先して英語の台詞を外すのが良いのか考えれば分かりそうなものだ。なのに「英語がろくに話せない役者に英語を話させる」という選択をしている。
ほんとやめた方が良い